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黒潮文化の流れ
それからも北海道へ通う生活が続きました。
相変わらず阿寒湖へ行けば今吉エカシは店先に座っています。

でも2回目の祭りの後、なんだか急に今吉さんからはちきれんばかりのパワーが感じられなくなってきました。
電話では元気な声で話してくれるのですが、実際に会うと何となく分かるのです。
デボさんももう親父は体力的には阿寒湖以外に出る事は難しいんじゃないか?と言っていました。
そんな事は無いです。今吉さんはまだ富士山へ行くといっているし、まだまだ体力は衰えていませんよ。
とはデボさんに言うものの、僕も気がかりではありました。

黒潮会では、2010年の祭り会場をどこにするかで沸いていましたが、僕的には少し様子を見ようと思っていました。
そうこうしていると、特にピンと来た会場が見付かるわけでもなく、そのまま祭りは行なわれる事無く2010年は過ぎていきました。

2011年は結婚した事もあって北海道に行く機会がめっきりと減ってしまいアイヌアートプロジェクトでも大きなイベントか内地のツアーの時しか合流出来なくなってきました。一度阿寒湖へいける機会があり、富士山で作られた削り花を今吉さんにもって行ったことがありました。その時今吉さんは寝ていたのですが、僕を見るや否や起き出して迎えてくれました。削り花を渡すと富士のイナウが阿寒にやってきたのは歴史上初めての事だと大変喜んでくれました。
その時はイオンカの材料を取りに出たついでで阿寒湖に寄ったものですから、今吉さんに会って削り花を渡したらすぐに阿寒湖を出ました。
するとしばらくしてデボさんから連絡が入り、親父が削り花が富士からやってきたからカムイノミすると言っている。すぐ来いとの話でした。
既に阿寒湖から80キロ程離れてしまっていたのでちょっと厳しいとの旨を伝えましたが、まさかこれが今吉さんとカムイノミを共にする最後のチャンスだったとはその時は夢にも思っていませんでした。

デボさんの言うとおり、今吉さんの様態は思わしくなく、寝ている状況が長く続いていたそうです。
それでも大きなカムイノミの際は祭司として出かけていたようです。


そして、2012年3月3日、夕方にアイヌアートのバンマス、賀道さんからメールで訃報が入りました。

今吉さんが亡くなられたらしい

え?・・・
何の虫の知らせも無く、いきなりの報せでした。
すぐさま賀道さんに電話し、確認を取りました。
よくは分からないが、阿寒からそういう話が来たという事でした。

僕はすぐに今吉さんに電話をかけました。
何かの間違えであって欲しい!自分はまだ今吉さんから教えてもらってばかりで何も返せてない!いや、見事な漆塗りのイオンカを作って今吉さんに渡す事でお返しをしようと思っていた!それさえもまだ出来ていない!頼む!嘘であってくれ!

電話は何回か呼び出し音が鳴った後、女性の声がしました。
デボさんの奥さんです。

「お父さんは、今日の正午、亡くなられました」

その言葉に一瞬またよく解らない状況になりました。
え?だって今吉さん今までだってもうだめだ、もうだめだって言われてきたのにその度に復活してなんでもなかったようにしてたじゃん。いきなり亡くなったって言われても信じられないよ。そんな言葉が頭の中をぐるぐる周り何を言っていいか解らなくなってしまい、とにかく阿寒へ行きますとだけ伝え電話を切りました。

次々と後悔ばかりが頭に浮かびます。
あの時、何で引き返さなかったんだろう?
なんでもっと早くイオンカを作って渡せなかったんだろう?
こんな事ならもっと阿寒湖に通って、今吉さんの傍にいれば良かった。

俺、駄目な弟子だなぁ。
そう思うととめどなく涙が流れ自分ではもうこの感情をどうしていいのか解らなくなってしまいました。

とにかく、なんとしてでも阿寒湖に行かなきゃ。
今行かなきゃもう今吉さんに会えない。

お金は?どうしよう?借金していくか?

とにかく、今は考えるより、この知らせをチカラや今吉さんを知っている人たちに伝えなきゃと思い、方々に電話しました。
チカラに電話するとすぐに、阿寒行くお金大丈夫ですか?皆に連絡して香典と交通費の足しになるようお金集めます。と言ってくれました。

頭がパニックでデボさんの奥さんと話した時に聞いたのに通夜と告別式の日程を覚えていなかったのでもう一度今吉さんの電話番号へ電話して日程を聞いたところ、友引きのおかげで通夜は5日になるという話でした。
丁度5日は21日に行なわれる舞台のリハーサルで東京へ行く事になっていて、その足で飛行機に乗って北海道へ行く事が出来るのでした。

次の日4日、チカラが香典と交通費の足しを、キャンプ場のオーナー、ニニギさんが香典と交通費にとお金を渡してくれました。アイヌアートのリーダー、幸司さんから電話が入り、俺も行くから札幌から車出してやる。と言ってくれました。札幌からはレンタカーで阿寒まで飛ばそうと思っていたので幸司さんが一緒に来てくれるのは心強かったです。人間本当に困った時には周りに助けられる物だとこれほど感謝した事はありませんでした。

5日の朝、夕べから降った大雪が朝方に大雨に変わって富士山が物凄い景色になっていました。
大雨が降っているにもかかわらず、富士山は雲に隠れず佇んでいました。
富士山も今吉さんの死を悲しんでいる。

リハーサルを途中で抜け出し吉祥寺から羽田へ、そして札幌に着いて幸司さんと合流。
阿寒まで高速を使って4時間ちょいで着きました。
もう通夜は終わっていて、今吉さんのお顔を拝見しようにも棺おけの窓は閉まっていて見れません。
明日、告別式の時まで我慢しようと思いその晩は酔っ払いもしないのに酒を浴びるように呑みました。
この時、まだ今吉さんは確かに肉体にいた気がしていました。
デボさんも僕が来たことに喜んでくれました。デボさんには明日、今吉さんにイオンカとイオマンテの唄を歌ってあげたいというと、是非そうしてくれと、告別式が始まる10時にお前の演奏を聞かせてやってくれと言ってくれました。

結局朝6時頃まで寝れず、火の番をしていましたが、8時まで2時間ほど休みました。
ご飯を食べ、告別式の準備が整うと奉納演奏を始めました。
先ずは今吉さんから教えてもらったイオマンテ。声が震えて上手く歌えたのか分かりませんでしたが、その時の精一杯で歌わせてもらいました。イオンカも、震えて上手く吹けたのかも分かりませんが精一杯吹かさせてもらいました。
終わって席に座ると、幸司さんが「今吉さんがマーキー君、良いイオンカじゃないかって言ってるぞ。そう聞こえた」って言ってきた途端、我慢していた涙がまた溢れてきました。

その後、坊さんがやってきて見事なお経を上げてくれましたが、その途中、生け花の中からチョウチョが飛び出してきました。阿寒湖はまだ-10℃以下で、しかもこの日は今吉さんを偲んでか猛吹雪が阿寒湖を襲っていました。

ああ、今吉さんやっと体から離れる時が来たんだな。

素直にそう思いました。

そしていよいよお別れです。棺おけの扉が開き、今吉さんの姿をやっと見る事が出来ました。
我が人生の師、秋辺今吉は生前と何の変わりもなく、安らかな顔をしていました。
皆で花を添える時、デボさんが一番最初にイオンカを今吉さんに抱かせてくれました。

ごめんなさい師匠、生きているうちに渡せませんでした。


その後、女性達の鶴の踊りや男性の弓の踊りを経て出棺となりましたが、建物の扉を開けた瞬間、猛吹雪が吹き荒れました。
バスに乗り、火葬場に向かいましたが、ほんの1キロも行くと吹雪はうそのように止んでいました。

もう、今吉さんの肉体とはお別れです。二度とあの声を聴く事も、あの笑い顔を見る事も出来ません。
今までいて当たり前だった存在がいなくなろうとしています。いや、きっと今吉さんなら肉体という窮屈な物から抜け出て自由に、もっと大きく羽ばたけるって笑っているのかな?とも思いました。
僕と今吉さんは住んでいる距離が離れているという事がありましたが、これで距離も時間も越えてずっとずっと近くになったのかなとも思いました。


今吉さん、今までどうもありがとうございました。
今度からは大空から見守っていてください。

僕がイオンカを吹くとき、作るとき、いつも今吉さんと一緒です。


そうお別れして、今吉さんのお顔と髭に触れましたが、まだまるで生きているかのように力強かった事を忘れません。
本当に本当に感謝しか出てきませんでした。

2時間かけて骨だけになった今吉さんはその生き方のとおり本当に骨太でした。
イオンカも無事に今吉さんと天に昇ったのか跡形も無くなっていました。

火葬が無事終わり、またバスに乗って阿寒に向かおうとすると鶴が2羽すぐ近くにいました。鶴は警戒心が強く、人間はなかなか近づく事が出来ません。
それなのに一向に逃げようともせずに1メートル程近くにいました。僕は野生の鶴の目を初めて見ました。
この2匹は今吉さんが天に昇るのを見守ったのか、はたまたその翼で天に連れて行ったのか・・・

帰りのバスの中なんだか悲しくなり、また泣いてしまいました。

葬儀会場に着くと幸司さんが熱があるのに待っていてくれ、まだ葬式はもう少し続きましたが、師匠の骨を拾う事も出来たので札幌に戻りました。



なんだかぽっかりと胸に穴が開いた気がします。
あまえさせてくれる大切な人がこの世から一人いなくなりました。
だからきっと僕も新しく誰かの面倒をみないといけないって事ですよね。



今吉さん、あなたから教わった事は必ず繋いで行きます。


黒潮文化の代表として

イオンカ奏者代表として

あなたの最愛の弟子として

ありがとうございました。



マーキー・ジョモラ

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それからというもの、毎日3回も4回も今吉さんから電話がかかってくるようになり、昨日見た夢の事や、今日あったこと、富士山への想いなどを伝えてくるようになりました。

僕もその頃実家の千葉でアルバイトをしていた為、休憩時間に電話を折り返す事が多かったです。
家の親はご老体で暇だから電話かかってくるんじゃないかなんて冗談を言うくらい電話をくれました。

一番印象深かったのは、何の話からかは覚えてませんが、

「ワシはアンタに惚れたんじゃ!」

という言葉でした。
僕としては尊敬していた師匠からまさかそんなお言葉が聞けるとは思っていなかったし、男同士でその言葉を面と向かって言える人に初めて会いました。
あの秋辺今吉エカシに認められたのか!
という喜びで一杯でした。そしてそれから自分に自信を持つ事ができた気がします。

イオンカの事にしてもワシはもう歳だからあなたがやりなさいと全面的に応援してくれました。
いつか最高のイオンカを今吉さんに渡そうと心に決めていました。

この頃からアイヌアートプロジェクトの一員として活動するようになり年に半年近くは札幌に滞在する生活が始まり、機会がある毎に阿寒湖まで今吉さんに会いに行きました。今吉さんのイオマンテの唄にイオンカで伴奏を付け、レコーディングしたりもしました。
阿寒湖の創立者でもある今吉さんは阿寒湖で最も権威のある人でもありましたから、一声でオンネチセをレコーディングに使わせてもらう事が出来ました。

黒潮会のチカラやヤマトと3人で今吉さんに会いに行った事もありました。
実年齢では90歳を超えるというのに会いに行く度に店先で木彫りを彫っていたり、観光客とお話をしていたり、女性の観光客に肩を揉ませていたりしている時まであり、とても人気者でした。そんな今吉さんを見ていて、ああ、この人はいつまでもこうで体力の衰えや、デボさんが心配しているような事は無いんじゃないか?と思って安心しきっていました。

そうこうしている内に、もう一年が経ち、黒潮会での2回目の祭りが始まりました。
2年目の会場は今住んでいる西富士オートキャンプ場です。

ここはミクシーで知った富士山ニニギさんという方のキャンプ場で、日本神話に出てくる天岩戸が実際に在るという所で、地質学者の調査にも6000年前に石組みが組まれている事が解り、なぜこんな巨大な遺跡を造る事が出来たのか謎でしかないとまで言われた場所です。

この場所が決まった時もすぐに今吉さんへ連絡しました。

今吉さん
「ほぉ! そんな所があるんだねぇ。 昨日、富士山の夢を見たんだけどねぇ、 なにか、 猪が富士山を駆け上っているそんな夢だったなぁ。 何を意味しているかは、 まだ解らないんだけどねぇ、 これはそこに行ってカムイノミせにゃならん気がしてよぉ」

この猪が駆け上っているというのは未だにその謎が解けていませんが、もしかしたら富士の噴火を意味していたのかもしれません。

そんな訳で第2回目の部族回帰の祭りが動き始めました。
1回目の祭りで、チカラとヤマトは先住民の生き方に感動したのか海外の先住民の村などを訪れ、生活の智慧など学んで2回目のイベントに備えようと意気込んでいました。

キャンプ場に竹で作った屋根付の囲炉裏の切られた簡易小屋。
長さ15メートル近くの竹で組んだステージ。
1回目のイベントの時書くのを忘れていましたが今回も1回目のイベント同様全ての材料を山から切り出し、出来るだけ人工物を使わず、電気はバイオディーゼル発電で音響設備と若干のステージ照明のみ使用、という条件で行ないました。

この時のカムイノミは昼間に行なわれました。
1年ぶりに聴く今吉さんのカムイノミ・イタク、本当に素晴らしかったです。

今回のイベントはもう皆も慣れたものでスムーズに事が運び、松明とかがり火で照らされた遺跡群はまた格別な趣を醸し出していました。
今吉さんは、天岩戸に何か恐ろしい物を感じたらしく、最後まで岩戸の中には立ち入る事はしませんでした。

そして1年ぶりに聴くイオマンテのお話、歌。
どれも何の変わりも無く、秋辺今吉エカシの健在っぷりを披露してくれました。
そして翌日の簡易小屋でのお話は珍しく源義経伝説についてでした。
源義経はアイヌの民話の中では北海道に逃れ、アイヌのメノコ(女性)との間につね丸という子を残して大陸に渡っています。
その話を継承しているアイヌも今吉さん以外おられないでしょう。

古代研究家のキャンプ場のオーナー、ニニギさんもアイヌの最長老が当地にやってきてカムイノミをやってくれる事に大喜びでした。
富士周辺のアイヌ遺跡と呼ばれる数々の遺跡に今吉さんを案内してくれました。

今回も前回ほど長い期間ではなく3泊4日の短い期間でしたが笑いとドラマの詰まった祭りでした。
羽田に向かう最中、今吉さんは満足そうに富士山を眺めていました。


また来年も、その先もずっとこうして今吉さんとカムイノミをやってくんだろうなぁ。
そう信じて疑わない2009年の5月でした。















こうして、祭り~ワークショップ~ストーリーテリング~祭りと約9日間をかけて西伊豆から東伊豆まで横断してイベントを行ないました。
そしてようやく残り5日間、ゆっくりと今吉さんと過ごせる時間がやってきました。
これも、予め黒潮会でどういうルートで観光に行こうか決めていました。

先ず今吉さんが予てから楽しみにしていた富士山観光。最初羽田から三島に到着した時から富士山を見ては美しい山だと感激していました。実は4月終わりと言うのに今吉さんがやってくる前日に富士山が雪をかぶり、綺麗な雪化粧をしていたのです。なので今吉さんが富士山を見て溜め息をつくたびに僕は、今吉さんが来るから富士山がお化粧して待っていたんですよって言いました。今吉さんはその度に素直に喜んでくれてました。

今まで今吉さんは富士山を通り過ぎた事は有ったけれど、富士山に登った事も無く、車で上がったことも無いままでした。

今吉さん
「いろいろ言う人が在るかもしれんがね、 ワシは富士山はアイヌ語だと思っている。 富士山は、 フチさん。 つまりお婆さんという意味じゃ。 アペフチのフチだから、 つまり火山のお婆さんて事なんだねぇ」

当時はそうなのかぁと漠然と聴いていましたが、その後富士山に住むようになり、いろんな事が解ってくるとこの時今吉さんが言った事が全くのでたらめではない事が解ってきました。確かにその事について躍起になって違うと言う人もいます。しかし、その行為自体意味の無い事で、歴史の上で何が正しくて何が間違っているなど当事者で無い限り確証は無いのです。ましてや富士山などいつから呼ばれ始めたのかはっきりと解らないのです。それよりも今の人生をどう豊かに過ごし、後世にどれだけの夢を残していけるかの方が重要だと僕は思います。

現に良く調べていくと、富士山の周りにはアイヌ語起源の地名が沢山残っていますし、古代富士文献には、はっきりと富士アイヌ・甲斐アイヌ・相模アイヌ・八代アイヌ、群馬アイヌと書かれています。
そのような沢山のアイヌの痕跡を辿り時代を追っていくと、6世紀まで富士山周辺にいて祭儀を執り行い、強大な勢力を誇っていた蘇我一族と6世紀以降に北海道で始まった擦文文化が繋がってくる事が解ってきます。

話が逸れてしまいましたが、アイヌ語地名やアイヌ語起源説について多くの批判的な意見や最初から偏見を持つ人々は多くの勘違いと調査不足によるもので火の無いところに煙は立たないという諺を良く噛締めて頂きたいと思う所存です。そして、批判する姿勢からは真実など決して見えない事もよく理解して欲しいと願っています。


そんな訳で、先ずは富士山へ上り、そのままクリスタルラインと言う巨石奇岩の磐境がオンパレードの道を抜けストーンサークルの真ん中に据えた水晶の原石をお借りした信州川上村の山中さんの民宿に行ってゆっくりしようという計画が始まりました。

富士山の東側から車で5合目までドライヴしました。初めての富士山ドライヴに今吉さんも大喜びで何度も何度もオンカミ(拝み)してその美しさに溜め息をついていました。
そうして丁度5合目に着いて蕎麦でも食べようとなった時に僕の電話が鳴りました。


「はい、もしもし。」

相手
「マーキーさんですか?家の親父が静岡に行ったまま戻らないんですが、今どこにいるか分かりますか?もう10日も帰ってきてません。歳も歳だし家内も心配している状況です。」


「あ!デボさんですか!すいません。今一緒に富士山に来ています。」

デボさん
「富士山!?家の親父、電話もかけてこないで、いつ帰ってくるかも言わないで心配してたら富士山で遊んでる!?笑」


「すいません。一応スケジュールは渡していたのですが・・・。イベントは無事終了してこれから富士山と長野県の川上村へ行ってきます。温泉でも入りながらゆっくりしてもらおうと思っています。」

デボさん
「あー、それなら安心したわ。家の親父、富士山行くの楽しみにしてからなぁ。よろしく頼むよ。」


そんな電話をしている横で今吉さんは溶岩の石を見てはこれは使えると言いながら何個も何個も拾っていました。今吉さんは何でも使い道を考える人でした。その可能性を見つけ、応用しいろんな物を作るのが好きな人でした。

皆で蕎麦を食べ、富士山を降りて川上村へ向かいました。
途中の巨石群や標高の高い山々を見て喜んでくれ、長いドライヴの間一睡もしないで景色を楽しんでいました。
その間、いろんな事を教えてくれました。

川上村の湯沼鉱泉という山中さんの民宿に着いた僕らは、早速今までの話をしたり今吉さんと山中さんのお話しを聞いたりしていました。今吉さんは山中さんを気に入ったらしく、「本当の人間とはこういう人を言うんだよ」と自分より40歳も年下の山中さんを褒めていました。
確かに山中さんは水晶に魅せられ借金を負っても家族に反対されようとも水晶を掘ることを信念に何十年も続けてきた人でした。

話が一段落して、山中さんが堀抜いた洞窟を見学しに行きました。洞窟内に様々な珍しい水晶やここにしかない水晶などが展示されていて見事な空間を作り上げていました。

ここ、湯沼鉱泉では今吉さんもゆっくり出来て可愛い川上犬にも癒されていました。


その後、三島の山小屋へ戻り、昼は温かい日差しに恵まれながら夜は宴会という日が2日程続き、お別れの日がやってきてしまいました。
さすがに14日間昼夜を一緒に過ごしてきたので、黒潮会のメンバーも別れるのが辛そうでした。それだけ今吉さんは僕らにいろんな事を教えてくれ、またいろんなドラマを見せてくれました。そして、いつも褒めてくれました。

山小屋から羽田へ向かう際、今吉さんを乗せた車の周りを黒潮会のメンバーが乗ったバイクで囲み大名行列ならぬ勢いで三島まで皆で見送ってくれました。
その帰り道、今吉さんは

「この人生で富士山に登ることが出来ようとは夢にも思わなかった。 君たちが一生懸命に物事を進めていくから、 ワシもまた、 元気をもらったよ。 ありがとう」

と言ってくれました。
そして、

「来年も必ず来るから、 また一緒にカムイノミをやろうな。」

とも言ってくれました。
羽田に着いてご飯を一緒に食べて、また、阿寒湖へ戻っていきました。


かっこよくて優しい、何でも知ってる、素敵なお爺ちゃんが出来た。
そして偉大な師匠が現れた事に喜びに打ち震えた2008年の春でした。














民宿に泊まっている間、様々な人が訪れ、中には吃驚するほど神懸りな人もいました。
今吉さんはどんな人が来ても受け入れました。

今吉さん
「いや~、 すごいねえ。 あれほどの神懸りはうちの母親以来初めて会ったかも知らん」

様々なカムイノミの祭司を執り行ってきた今吉さんは、霊界の事、魂の事、カムイの事について深い経験と知識を持っていました。
アイヌはカムイノミに対して命懸けで挑むといいます。それは、カムイノミ・イタクがきちんと間違えずに唱えられ、カムイを喜ばすことが出来なければ、もしカムイに失礼が生じ、怒らせてしまったら、その代償はカムイノミに参加した誰かに不幸として降りかかってくると言われているからです。


そしていよいこのイベントのメインである洞窟でのイチャルパ、ライヴが始まります。

空の太陽がだいぶ傾き、ターコイズブルーの海が藍色へ変わり、夕日が水面にそっと色添えた頃、沢山のお客さんに囲まれイチャルパが始まりました。
普通カムイノミやイチャルパは太陽の出ている内に行うのがしきたりとされ、多くは正午頃執り行われますが、今吉さんはこのイベント期間のカムイノミは夕方にこだわっていました。何故なのかはお話されませんでした。

地響きのようなカムイノミ・イタクが始まり、夕闇に染まり始めた辺りは洞窟の岩肌と相まって荘厳な世界を作り上げていました。大勢のお客さんにはなんの為のイチャルパなのか、伝えきれ無い事は承知で、一応経緯はお話していましたが、かがり火だけで岩肌に写った影に柿の色をしたブチ猫が見えた気がしました。
柿の色をしたブチ猫、それは西表山猫ではないですか。本来日本列島には奈良時代に今の猫たちがやってくるずっと前から野生には柿の色したブチ猫がいたのかもしれません。
いや、今吉さんが夢で会ったということはきっとそうなのでしょう。

見事なカムイノミ・イタクが終わると今吉さんは立ち上がりみんなに言いました。

今吉さん
「さーあ! 踊るよー! イチャルパが終わるとね、先祖や見えない存在と一緒に踊るんだよー!」

と言ってタプカラを舞い始めました。タプカラとは海にいた原初の人間の祖先が陸に上がってくる際、立ち上がって二足歩行を始めたことに起因する舞いで、最も古い舞いだとも言われています。両手のひらを空に向け、人間が天より初めて賜った言葉「あ」に抑揚をつけ、ずっと連呼しながら力足を踏みます。

「ああぁあ あああぁあ ああああああぁあぁあぁ・・・・」

みんな初めて見るその舞いに騒然となり立ち上がり、輪になってキラキラした目で今吉さんを見つめました。
僕は必死になってイオンカを吹いていました。
今吉さんのタプカラに触発された女性も舞い始めました。
人だかりと踊る人、周りに響く聖なる「あ」の言葉、かがり火で映し出される蠢く影。


正に原初のスピリットが降りてきている、その場にいた誰もがそう感じていたと思います。


惜しまれながらも踊りを終えると、今吉さんは祭壇へ戻りタバコを一服しはじめました。
それと同時に洞窟内でのライヴが始まりました。
今吉さんは12時からの自分の出番に備えるため、民宿に一旦戻って休むと言われました。

演目は次々と順調に進み、400人以上来てるのではないかという位の人で洞窟はごった返していました。
どのライヴも盛り上がり、かがり火と照明2つだけの洞窟内は幻想的な空間を作り出していました。

そしていよいよ、秋辺今吉エカシによるストーリーテリングの時間が近づいてきました。
僕は今吉さんを迎えに行き、大きい洞窟の入口から今吉さんをステージに上がってもらおうと連れていきました。
大きな入口は階段でそのままステージに降りられるようになっていました。

今吉さんは足の状態があまり思わしくなく、階段の昇り降りがきつそうです。
僕とチカラが両脇から支え、歩く補助をしましたが、うまく足が動いてくれません。
ステージ上はもう前のバンドが終わり、SEで場をつないでいる状態で、会場は今吉さんを今か今かと待ちわびている状況でした。

すると突然

「えぇ~い! 秋辺今吉! 頑張れ! しっかりしろ! 何の為にここまで来たんだ!」


今吉さんは自分に向かって、自分の足に向かってそう叫びました。
一瞬僕もチカラもビックリしましたが、すぐに意味が解り涙が溢れ出そうになりました。
今吉さんは僕らには気丈でパワフルな態度しか見せていませんでしたが、当時90歳の御歳でこの長旅は決して容易い物ではなかったのです。

なんとか階段をおりきり、照明とかがり火に照らされた秋辺今吉エカシはそれはそれは見事な出で立ちでした。
頭に付けた王冠の様なパウンペ。時代を感じさせる華やかな陣羽織。見事な刺繍が入った着物。
そして立派に蓄えられた髭。

会場は静けさに支配され、固唾を飲む音だけが聞こえる様な、そんな期待感の中、今吉エカシは静かに語り始めました。


幼い頃、自分の家で子熊を飼う事になった事。
ゴンタと名付けた事。
山野をゴンタと駆け回った事。
ゴンタと一緒に眠った事。
ゴンタと一緒にご飯を食べた事。

・・・そして、イオマンテ(熊送り)で母親の元にゴンタを送る時の事。


今吉さんは声を張り上げて言いました。
イオマンテは残酷だと。
幼かった自分にとって兄弟同然で過ごしたゴンタを殺すなど耐えきれるものではなかったと。

会場で聞いていた人達の中からすすり泣きが聞こえ始めました。
大泣きしている女性もいました。


そしてアカペラで自らが作った歌「イオマンテ」を唄い始めました。




イオマンテ 燃えよかがり火 天まで上がれ

肌に 暖め 育てた 子熊

明日は お別れ イオマンテ イオマンテ イオマンテ


イオマンテ 今宵お祭り メノコよ踊れ

踊る メノコの すすり泣き

泣くな 子熊よ もらい泣き イオマンテ イオマンテ


イオマンテ 今宵お別れ 御母の星座(ほしざ)

あまえて 暮らせ いつまでも

暴れて 暮らせ いつまでも イオマンテ イオマンテ




洞窟内は哀しみに包まれ、今吉さんの歌は洞窟から海へ、そして夜の星空に溶けて行きました。
私たちは命をどう捉えているでしょうか?
スーパーで綺麗にパックされた肉を見て命の尊さを感じることが出来るのでしょうか?
生きるとはどういうことなのでしょうか?

今吉さんは約40分間のお話を通じてその事を伝え終えるとステージを後にし、僕とチカラに支えられ、階段を上り始めました。


洞窟には魂を打たれ呆然となった人々を静かに癒すように優しい波の音だけが響いていました。






丁度その頃、静岡県の沼津でもライヴをやっており、後の黒潮文化の会の素晴らしき仲間達とも出会っていました。
ある時早速チカラという頼もしい仲間に今吉さんの事を話し、部族社会に帰ろうって言うコンセプトのイベントで秋辺今吉さんのカムイノミ(カムイへ願いを届ける儀礼)やお話を聴くことが出来る祭りをやらないか?と話を持ちかけたところ二つ返事で「やりましょう」と返してくれました。
その後、三島エリアの仲間みんなで共有している箱根山脈にある太平洋の見える景色の素晴らしい山小屋を拠点に、太平洋をつなぐ文化の提唱をする為に黒潮文化の会が発足しました。


先ずは祭りをどこでやるか。


何箇所かめぼしいところを探して廻るけれどピンとこない。
ちょっと離れて下田まで行ってみるか?
下田に良い所有るんですよ、とチカラ。


着いたところは浜辺にあるでかい岩山。サザレ岩だ。
よく見ると浜から岩山の中に入っていける裂け目がある。
中に入っていくと突然巨大な伽藍堂が広がり、海に向かって2つの巨大なサザレ岩が重なった状態になっているのが分かりました。
そして海に開けた口の真ん中にもう一つ4メートル四方くらいのサザレ岩が据え置かれていました。

もう言うことはありませんでした。
僕もチカラもここに暗黙の了解で決めました。
車に乗って引き返す途中、今吉さんから電話がなりました。

今吉さん
「あー マーキーさんか? 昨日なぁ、 夢で洞窟に行ったんじゃよ。 
そいでなぁ、 その洞窟の主! こう、柿の色したブチ猫! 
それがなぁ、 たいそう暴れておるんじゃ。」


「はい?洞窟?今丁度洞窟に行ってきたんですけど、実は前に話してたカムイノミの件ここでやってもらおうと思っていたんですよ!」

今吉さん
「ほぉ! その洞窟、東へ向いているか?」


「ああ!東向いています!」

今吉さん
「やっぱり、何かあるんだねぇ。 そこに行ってイチャルパ(供養祭)せにゃいかん。」


「分りました。じゃあ祭りはここでやることにして進めます。」


そういう訳で何度も下田へ通い市役所や観光協会を回って準備をしていきました。
そうこうしている内にせっかく来てもらうんだったらゆっくり伊豆を回ってもらう感じでスケジュールを組もうという事になり14日間の壮大な計画を立てました。
その頃の今吉さんははち切れんばかりのパワーで、この祭りにも意気込んでくれました。



4月26日、伊豆はもう海水浴が出来るほど太陽が強い季節に、資金繰りで上手くいかなかったりもしましたが、黒潮会の仲間で協力して祭りを回し続けはじめました。

最初に行なった祭りの方は、直径20メートルあまりのストーンサークルを造って真ん中に長野県川上村で採れた水晶の原石10キロを置き、そこで秋辺今吉さん、石井ポンペさん、アイヌアートプロジェクト6人と北海道からアイヌが8人もやって来て、カムイノミ、音楽祭、ワークショップという大きな祭りを打ち出したのですが、思うように集客できず力不足でした。

しかし、カムイノミは凄まじく、普通はイヌンペという神聖な炉縁をきるのがカムイノミのしきたりですが、今吉さんは「そんなものは石できればいい」と言って石を並べさせました。
そして祭壇に入場する際には、後ろからポンペさんがヘニュードを吹きました。
祭壇に水晶を構え総勢8人のアイヌと和人が入り乱れ座り、静粛な雰囲気の中、今吉さんのカムイノミ・イタクが始まります。


「あぁぁ・・・ぺぇぇぇ・・・ふちぃぃぃ・・・かぁむぅいぃぃ・・・


地響きのような、野太い抑揚とこぶしが利いた言葉が謳われている。
炎がパチパチと音を立てる中迫り来る雷鳴のような言葉達。
もう薄暗くなった空には星が瞬き始めていました。

厳粛なカムイノミが終わりみんなでくつろいでいた時、一人の少年が「あ!UFOだ!」と叫びました。
たしかにその方角には揺れ動く4つの光が有りました。

今吉さん
「UFOも挨拶しに来てるよー おーい さぁ、みんなで挨拶して!
 UFOはねぇ、 アイヌ語で シンタ! 揺籠って意味なんだよー」

何事にも動じず、受け入れるお姿にいたく感動いたしました。


その日は夜通しライヴが繰り広げられ翌朝アイヌアートプロジェクト~石井ポンペさん~地元の和太鼓と進むにつれ、今吉さんも起きてきてライヴを楽しんでいました。
そして内田ボブさんが歌い終わった頃、今吉さんは我慢し切れなかった様子でマイクを取り、自らが経験したイオマンテのお話、歌、ハーモニカを演奏してくれました。


大きな祭りが一つ終わり今吉さんとポンペさんにはゆっくりしてもらおうという事で下田の海岸に程近い民宿を取り伊豆の太陽を楽しんでもらいました。
その間黒潮会はワークショップや会場設営など駆け回り切り盛りしてくれました。



2008年5月、南伊豆の真夏の様な日差しと空模様の中、麦わら帽子にサングラスをかけた今吉さんが今でもハッキリと脳裏に焼き付いています。








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プロフィール
HN:
Marquee Djomula
性別:
男性
自己紹介:
マーキー・ジョモラ

2000年にオーストラリア、北東アーネムランドで伝説のイダキ(ディジュリドゥ)マスター、ジャルー・グルウィウィと出会い、イダキの伝統奏法、伝統曲、製造方法と文化を学ぶ。
13日間に及ぶ儀式に参加を許され、一族の血を表す赤オーカー(儀式の際身体につける顔料)を受ける。
守護霊と3つの名前 、秘密の名前をもらいジャルーの孫として受け入れられる。
二回目の訪問により太古の日本人がカヌーで村を訪れたという唄を歌い継いでいる事を知る。

2004年にアイヌ民族にディジュリドゥと同じ原理の単筒笛(たんとうてき)、へニュードとイオンカを発見。その伝承者、石井ポンペ氏(ヘニュード)、故・秋辺今吉氏(イオンカ)と出会い、ジャルーより学んだ製法によりへニュードとイオンカの制作を始め、漆ヘニュード・漆イオンカに辿り着く。
その他、約三年に渡るフィールドワークにより沖縄の単筒笛の存在、東北蝦夷のコサ笛の伝統的な作り方を発掘。

現在、古代ヤポネシア精神を復興する為に全国各地でのソロ演奏活動や日本列島における単筒笛文化啓発活動をしながら、故・秋辺今吉氏の意思を継ぐ為にワークショップも主催。

ソロ活動の他にトライヴァルロックバンド・アイヌアートプロジェクトでの演奏や、石井ポンペ氏との共演を重ね、伝統奏法を元に新たなヤポネシア奏法を模索し続けている。



黒潮文化の会代表。
http://marqueedjomula.web.fc2.com/index_mg.html


hi i`m marquee djomula. i study traditional aboriginal music. when i was 23years old, i met one great parson,djalu gurruwiwi. he gave me big love and secret name to me. he teach me how to play yolung style.and how to make yidaki. and join to dance on 13days ceremony.and djalu painted red orcar on my body. then i start visit djalu and lean spirit. when i visit secand time,djalu teach me one story from longlong time ago. it`s about japanese people visited the yolng villege by cunoe and dancing together. yolng people has a song about it and still sing on ceremony. it`s very very important for japanese people`s spirit and mind. perhaps can find a didgeridoo conection about from yaponesia to sundaland! when i was 26years old i find a japanese indigenous people(call ainu) have same principle of didgejedoo. call henyudo or ionka. then i start seaching yaponesian(japan`s old name.befor civilization) music and revivaling henyudo and ionka culture with last legendaly parson.


E-mail: marqueedjomula@gmail.com

★CD(古いCDデッキだと再生されない事があります)
Return to tribe
Marquee djomula
¥2000

★ディジュリドゥ教則DVD
How to traditional style 初級者編
\3500

CDとDVDはmarqueedjomula@gmail.comへご連絡ください。



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